エリック・クラプトンの若い頃――気になったこと、ないか?
今のクラプトンしか知らない人にとっては、「80歳のおじいちゃんがギターを弾いてる」というイメージかもしれない。だが、この男は21歳の時にロンドンの壁に「Clapton is God(クラプトンは神だ)」と落書きされた伝説のギタリストだ。
13歳でギターを手にし、一度挫折した。18歳でプロデビューし、20歳で「神」と呼ばれ、25歳で歴史的名盤を残し、30代で地獄を見た。その全てが、今もステージに立ち続けるクラプトンの音楽の血肉になっている。
俺はエリック・クラプトンに憧れてギターを始めた人間だ。あのブルースフィーリングあふれるギターと、あの歌声に惹かれたのがきっかけだった。
そして1995年、2014年、2016年と3回の来日公演を自分の耳で体験してきた。若い頃のブルース全振りのクラプトンから、円熟を経て枯れた味わいに変わっていくギタートーンの変遷を、同じストラトキャスターの音で追いかけてきた。
Xを見ていると、同じようにクラプトンに憧れてギターを始めた人間は山ほどいる。
この気持ち、痛いほどわかる。クラプトンのアンプラグドを聴いて「ブルースってこういうことか」と腹に落ちた瞬間は、ギター人生の分岐点だった。

この記事では、エリック・クラプトンの若い頃の音楽的進化と波乱万丈の人生を、ギタリストの視点で語っていく。単なる経歴紹介じゃない。若い頃のクラプトンを知れば、今のクラプトンのギターに込められた「一音の重み」がわかる。そういう記事だ。
エリック・クラプトンの若い頃 ― 13歳の挫折から「神」と呼ばれるまで

1945年〜少年時代:出生の秘密とギターとの出会い
1945年3月30日、イギリス・サリー州リプリー。エリック・パトリック・クラプトンは、複雑な家庭環境の中に生まれた。
母パトリシアは当時わずか16歳。父はカナダから来た兵士エドワード・ウォルター・フライヤーで、エリックが生まれる前にカナダへ帰国してしまった。幼いエリックを育てたのは祖父母のローズとジャックだった。クラプトンは長い間、祖父母を両親だと信じて育ち、実の母を「姉」だと思っていた。
この出生の秘密が明かされた時の衝撃は、後のクラプトンの音楽――特にブルースという「喪失と孤独の音楽」への傾倒に深く影を落としている。
ギターとの出会いは13歳の誕生日。祖父母からプレゼントされた安価なアコースティックギター「ホイヤー」だった。だが、スチール弦が指先に食い込み、コードを押さえるたびに痛みが走る。クラプトン少年は一度ギターを放り出した。
この「挫折から始まったギタリスト」というストーリーが、俺は好きだ。天才だって最初は挫折する。ギターを始めてFコードの壁にぶち当たった経験があるなら、クラプトンも同じだったと知れば少し気が楽になるだろう?
転機は15歳。ブルースのレコードに出会ったことだった。ロバート・ジョンソン、マディ・ウォーターズ、ビッグ・ビル・ブルーンジー。レコードに合わせてひたすらギターを弾き続ける日々が始まった。独学で、ひたすらに。
独学でプロになれるとか、やっぱ天才じゃん!俺には無理だわ〜

いや、クラプトンは1日何時間もブルースのレコードに合わせて弾いてた。「天才だから弾けた」んじゃなく、「狂ったように練習したから弾けるようになった」が正解だ。天才と呼ばれる奴は例外なく練習量がえげつない
1963年〜ヤードバーズ時代:18歳でプロデビュー、そして信念の脱退
1963年、18歳のクラプトンはヤードバーズに加入した。ロンドンのクラブシーンでブルースロックを演奏するバンドだ。
ヤードバーズのステージで、クラプトンのギターは瞬く間に評判になった。シカゴ・ブルースの影響を消化し、バディ・ガイやフレディ・キング、B.B.キングのフレーズを自分のものにした若きギタリスト。ロンドンのブルースファンの間で「あのバンドのギタリストがヤバい」と囁かれ始める。
だが、転機は突然やってきた。
1965年、ヤードバーズはシングル「For Your Love」をリリースする。グレアム・グールドマン作のこのポップなナンバーは商業的に大ヒットした。バンドはポップ路線への転向を決める。
クラプトンは、そのポップ路線に反発して脱退した。19歳の決断だ。
普通、バンドがヒットしたら喜ぶだろう。売れたんだから。金が入るんだから。でもクラプトンはそうじゃなかった。「俺はブルースを弾きたい。ポップなんか弾かない」。19歳でこの信念を貫ける人間が、どれだけいる?
ちなみに、クラプトンの後任ギタリストはジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジだ。ヤードバーズという一つのバンドから、ロック史に名を刻む3大ギタリストが輩出された。これだけでもヤードバーズがいかに異常なバンドだったかがわかる。
1965年〜ブルースブレイカーズ時代:「Clapton is God」伝説の誕生
ヤードバーズを去ったクラプトンが次に加入したのは、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズだった。ブリティッシュ・ブルースの総本山とも呼べるバンドだ。
ここで20歳のクラプトンは、あの伝説的なサウンドを確立する。
ギブソン・レスポール+マーシャル・アンプ。
この組み合わせで叩き出されるサウンドは、それまでのイギリスのブルースシーンにはなかったものだった。分厚く歪んだトーン、サスティンの効いたロングノート、そしてブルースのフィーリングを失わない歌うようなフレーズ。後のブリティッシュ・ブルースロック、ハードロックの原型がここで生まれた。
1966年にリリースされたアルバム「Blues Breakers with Eric Clapton」は、通称「ビーノ・アルバム」と呼ばれている。ジャケットでクラプトンが漫画雑誌「ビーノ」を読んでいることから名付けられた。このアルバムは、エレクトリック・ブルースギターの教科書としてロック史に刻まれている。
そして、この時期に伝説が生まれた。
ロンドンの街中、イズリントンの壁に、誰かがスプレーでこう書いた。
「Clapton is God」
クラプトンは神だ――21歳で、そう呼ばれた男。ギターの歴史の中で「神」と呼ばれたギタリストは他にもいるが、街の壁に落書きされるほどの熱狂は、クラプトン以外にはない。
21歳で「神」って呼ばれるの、凄すぎませんか? 私なんて21歳の時、コードチェンジすらまともにできなかったのに…



だからこそ伝説なんだ。ただし、クラプトンは15歳から毎日何時間もブルースのレコードに合わせて弾き続けてた。たった6年で「神」に到達した裏には、想像を絶する練習量がある
若い頃のクラプトンの最大のハイライト ― クリーム時代(1966〜1968年)


史上初のスーパーグループ結成と「ウーマントーン」の衝撃
1966年、21歳のクラプトンはロック史を変えるバンドを結成する。
クリーム。
ドラムスにジンジャー・ベイカー、ベースにジャック・ブルース。3人全員がそれぞれの楽器のトッププレイヤーだったことから、「史上初のスーパーグループ」と呼ばれた。
クリームの音楽は、ブルースをベースにしながらもサイケデリック・ロックやハードロックの領域へと踏み込んだ。3ピースとは思えない圧倒的な音圧と、ライブでは10分、20分に及ぶ即興演奏。ギター、ベース、ドラムがそれぞれ主張し合い、ぶつかり合い、その衝突から凄まじいエネルギーが放出される。
名曲は数え切れない。
- Sunshine of Your Love ― あのリフを知らないロックファンはいない
- Crossroads ― ロバート・ジョンソンのカバー。クラプトンのライブの定番中の定番
- White Room ― サイケデリックとブルースの融合の極致
- Badge ― ジョージ・ハリスンとの共作。ロック史に残る名バラード
そして、このクリーム時代に確立されたのが「ウーマントーン」だ。
ギブソンSGのネック側ピックアップを選択し、トーンノブを絞り切る。そこにマーシャル・アンプのフルアップサウンドが合わさると、甘く太く、まるで女性の声のように歌うギタートーンが生まれる。これがウーマントーンだ。
ウーマントーンは、クラプトン以前のブルースギターにはなかったサウンドだった。チャック・ベリーのキレのあるカッティングでもなく、B.B.キングの鋭いシングルノートでもない。甘く、太く、泣くように歌うギター。このサウンドは後のブリティッシュ・ハードロック、さらにはゲイリー・ムーアやジョン・メイヤーにまで影響を与えている。
わずか2年で解散 ― 天才たちの衝突と短命の美学
クリームの結末は、あまりにも早かった。
結成からわずか2年半。アルバムはたった4枚。1968年11月26日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでの解散コンサートを最後に、クリームは幕を閉じた。
原因はメンバー間の不和だ。特にジンジャー・ベイカーとジャック・ブルースの確執は凄まじかった。2人はクリーム以前からの因縁があり、リハーサル中にステージ上で殴り合いになることすらあったという。クラプトンはその間に挟まれ、バンドの維持に疲弊していった。
たった2年半のバンドだ。だが、その2年半でロック史に永遠の足跡を残した。逆に言えば、短命だったからこそ伝説になった。全盛期のまま終わったバンドは、色あせない。
2年半で解散ってもったいなくない!? あと5年続けてたら曲もっと増えたのに!



もったいないって気持ちはわかる。でもな、あの3人の衝突のエネルギーがあったからこそ、あの凄まじい音楽が生まれたんだ。仲良くやってたらクリームの音楽にはならなかった
クリーム解散後、クラプトンはスティーヴ・ウィンウッドらとブラインド・フェイスを結成する。しかしこのバンドもわずか半年で解散。若い頃のクラプトンはバンドの結成と解散を繰り返す。それだけ音楽的理想が高く、妥協ができない男だった。
若い頃のエリック・クラプトンの容姿 ― ギター・歌・ルックスの三拍子


1960年代のクラプトンはなぜ「イケメン」と言われるのか
「エリック・クラプトン 若い頃」で検索する人の中には、純粋に「若い頃の容姿が気になる」という人も多いだろう。
結論から言えば、若い頃のクラプトンは間違いなくイケメンだった。
1960年代のクラプトンの写真を見ると、鋭い眼差しと整った顔立ちが際立つ。ブルースブレイカーズ時代はモッズ風のスーツやシャツ+ベストというシックなスタイル。クリーム時代になるとアフロヘアに派手なサイケデリック柄のジャケットを羽織り、時代のカウンターカルチャーを体現するような風貌に変わった。
70年代に入るとヒゲを蓄え、ジーンズにTシャツというラフなスタイルに落ち着く。どの時代の写真を見ても、ギターを構えた時の佇まいが圧倒的にかっこいい。顔の造形だけではなく、ギターを弾いている時の「空気感」がイケメンなのだ。
Yahoo!知恵袋にも「若い頃のクラプトンめちゃくちゃカッコいい」という投稿があるように、世代を超えてそのルックスは語り継がれている。ギター・歌・容姿の三拍子が揃った存在は、ロック史を見渡しても稀有だ。
容姿だけじゃない ― 「神」と呼ばれた理由は音の中にある
ただし、ここではっきり言っておきたい。クラプトンが「神」と呼ばれた理由は、顔ではない。音だ。
クラプトンのギタープレイの最大の特徴は、「歌うように弾く」ことだ。チョーキングの深さ、ビブラートの繊細さ、フレーズの間の取り方。ギターがまるで人間の声のように感情を伝える。テクニカルな速弾きではなく、一音一音に感情を込める演奏スタイルこそが、クラプトンを「神」たらしめたものだ。
2014年、武道館でクラプトンを観た時のことを今でも覚えている。当時69歳のクラプトンは黒の半袖シャツにジーンズというラフな格好で現れた。派手な演出もなければ、ド派手な衣装もない。ただギターを抱えて、静かにステージに立っている。
「Crossroads」のソロが始まった瞬間、その左手が17フレットの高音域に駆け上がっていった。足元にはワウくらいしかない。エフェクターに頼らず、指一本一本のタッチだけであの分厚く甘いトーンを出す。スクリーンに映し出された左手の動きを食い入るように見ていた。
「ギターの音は、結局は指で決まる」――あの日、それを目の前で証明された気がした。
イケメンかどうかは時代とともに変わる。だが、ギターの音は嘘をつかない。若い頃のクラプトンが「神」と呼ばれた理由は、あの指先から生まれる音の中にある。
「いとしのレイラ」誕生の裏側 ― パティ・ボイドへの禁断の恋


親友ジョージ・ハリスンの妻に恋をした男
エリック・クラプトンの若い頃を語る上で、この話は避けて通れない。
1960年代後半、クラプトンはビートルズのジョージ・ハリスンと深い友情を築いていた。互いのギタープレイを認め合い、レコーディングにゲスト参加し合う仲だった。クリームの名曲「Badge」はジョージとの共作であり、ジョージの「While My Guitar Gently Weeps」ではクラプトンがリードギターを弾いている。
その親友の妻、パティ・ボイドにクラプトンは恋をした。
一方的で、激しく、どうしようもない恋だった。パティに何度も愛を告白し、拒絶される。それでもクラプトンの感情は収まらなかった。
この恋の苦悩が、ロック史上最も有名なラブソングの一つを生む。
12世紀のペルシャの詩人ニザーミーの叙事詩「レイラとマジュヌーン」――手に入らない恋人レイラを想い続けるあまり狂気に陥る男マジュヌーンの物語。クラプトンは自分自身をマジュヌーンに重ね、パティを「レイラ」と呼んだ。
親友の妻に恋をして名曲を書く。道義的にどうなのかという議論は当然ある。だが、この激しい感情がなければ「いとしのレイラ」は生まれなかった。芸術とは時に、人間の暗い感情から生まれるものだ。
デレク・アンド・ザ・ドミノス ― 名盤「レイラ」と短命バンドの運命
1970年、クラプトンは新たなバンドデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成する。「エリック・クラプトン」という名前のプレッシャーから逃れたくて、「デレク」という変名を使った。
このバンドのレコーディング中に、運命の出会いが起きる。アメリカ南部のスライドギターの名手、デュアン・オールマンとの邂逅だ。
クラプトンとデュアンは意気投合し、デュアンはアルバムのレコーディングに全面参加する。2人のギターが絡み合い、ぶつかり合い、互いを高め合う。その結果生まれたアルバムが「いとしのレイラ」(Layla and Other Assorted Love Songs)だ。
タイトル曲「レイラ」のあのイントロ。デュアン・オールマンのスライドギターとクラプトンのエレキが重なり合う、ロック史上最も有名なギターリフの一つだ。後半のピアノパート(ジム・ゴードン作曲)との対比も含め、7分を超えるこの曲は、激しい恋の苦悩と、その先にある静かな諦念を描き切っている。
だが、この名盤は発売当初、商業的には失敗だった。「デレク・アンド・ザ・ドミノス」という無名のバンド名のせいで、クラプトンのアルバムだと気づかないファンも多かった。
再評価は後年になってからだ。現在では「ロック史上最高のアルバム」の一つとして、あらゆるランキングに名前が挙がる。皮肉なことに、売れなかったからこそクラプトンの精神はさらに追い詰められ、この後の「暗黒期」へと突入していく。
デレク・アンド・ザ・ドミノスは、たった1枚のスタジオアルバムだけを残して解散した。デュアン・オールマンは翌1971年にバイク事故で他界する。25歳の若さだった。
クリームもデレク・アンド・ザ・ドミノスも短命なんですね…。クラプトンのバンドって、どれも燃えるように活動して、すぐ散ってしまう



そうなんだ。クラプトンの若い頃は「全力で燃焼して解散」の繰り返し。だからこそ、どのバンドにも強烈な輝きが残ってる。短命は美学だ
若い頃のクラプトンの使用ギター遍歴 ― テレキャスからストラトへ


時代ごとの愛器とサウンドの変化
ギタリストとしてクラプトンの若い頃を語るなら、使用ギターの変遷は避けて通れない。クラプトンのサウンドは、その時々の愛器によって大きく変わっている。
| 時代 | 主な使用ギター | サウンドの特徴 |
| ヤードバーズ(1963〜65) | テレキャスター | シャープで切れ味のあるブルーストーン |
| ブルースブレイカーズ(1965〜66) | レスポール・スタンダード | 分厚く歪んだ「ビーノ」トーン |
| クリーム前期(1966〜67) | SG | ウーマントーン。甘く太いサスティン |
| クリーム後期(1967〜68) | ES-335 / ファイヤーバード | ジャズ的な奥行き。サイケデリック寄り |
| デレク&ザ・ドミノス(1970) | ストラトキャスター「ブラウニー」 | クリアでエッジの効いた「レイラ」トーン |
| ソロ活動以降(1970年代〜) | ストラトキャスター「ブラッキー」 | クラプトンの代名詞。クリーン〜クランチ |
注目してほしいのは、クラプトンがギブソン系(レスポール・SG・ES-335)からフェンダー系(ストラトキャスター)に完全移行したという点だ。
ブルースブレイカーズ〜クリーム時代の「分厚く歪んだサウンド」から、デレク&ザ・ドミノス以降の「クリアでニュアンス豊かなサウンド」への変化。この転換は、単にギターを持ち替えただけではなく、クラプトンの音楽的志向そのものの変化を反映している。
若い頃のクラプトンは「音の壁」で圧倒するタイプだった。それが年齢を重ねるにつれ、「一音の中に感情を詰め込む」スタイルへと変化していく。ストラトキャスターの、あのシングルコイル特有の鈴鳴りするようなクリーントーンは、その変化にぴったりの楽器だった。
俺は3回の来日公演すべてでクラプトンのメインギターがストラトキャスターであることを確認している。1995年の福岡ではブルース全開の攻撃的なドライブサウンド、2014年の武道館ではクリーントーン中心の洗練されたサウンド、2016年の武道館ではブルージーかつ枯れた味わいのトーン。同じストラトキャスターでも時代によってこれほど音が変わるのか、と実感した。
それは楽器の違いじゃない。弾く人間の内面の変化が、音に出ているんだ。
「良い音はエフェクターではなく指で作る」― クラプトンの機材哲学
クラプトンの機材哲学は、一言で言えば「シンプル」だ。
現在のシグネチャーモデルFender Eric Clapton Stratocaster(Black)のスペックを見ると、その思想がよくわかる。
- Vintage Noiselessピックアップ×3(ノイズを排除しつつヴィンテージサウンド)
- TBX回路+25dBアクティブミッドブースト(音の太さを指元でコントロール)
- トレモロはウッドブロックでブロッキング(チューニングの安定性重視)
- ソフトVシェイプネック(握り込みやすい形状)
2014年の武道館で目の当たりにしたクラプトンの足元はほぼワウだけだった。あの分厚くて甘いトーンは、エフェクターではなくギター本体のミッドブーストと、何十年も弾き込んだ指先のタッチから生まれている。
これはギターを弾く人間にとって重要な教訓だ。「良い音はエフェクターの数ではなく、ギターとアンプと自分の指で作るもの」。クラプトンの哲学そのものがシグネチャーモデルの設計に反映されている。ミッドブースト回路が内蔵されているのは、まさにその思想の表れだろう。
実際にこのシグネチャーモデルを使っているユーザーの声を見ると、「ネックの快適さ」「ミッドブースト回路の汎用性」を評価する声が多い。Amazonのレビューでも「ヴィンテージスタイルのフレットの感触が指先に心地よく、弦のベンドが楽」「ミッドブーストでクランチからクリーンまで幅広いトーンが出せる」と高評価だ。
一方で「ステンレスフレットではないのが残念」「ピックガードが単層で他のストラトと統一感がない」という声もある。だが、単層ピックガードはオリジナルの愛器ブラッキーの仕様を再現したもの。クラプトン本人のこだわりだ。
クラプトンのギターをもっと深掘りしたいなら、Guitar magazine Archives Vol.2 エリック・クラプトンがおすすめだ。ギター・マガジン創刊40周年記念の総集版ムックで、機材・奏法の情報が詰まっている。使用ギター遍歴を網羅したヤングギター コレクション Vol.2 エリッククラプトンも合わせてチェックしてほしい。
えっ、エフェクターいっぱい買わなくていいの? 俺、ボード組むの楽しみにしてたのに…



エフェクターが悪いわけじゃない。ただ、「エフェクターで音を誤魔化す」のと「エフェクターで音を磨く」のは全然違う。まずは指で良い音を出せるようになってから、エフェクターの世界に入れ。順番の問題だ
若い頃の栄光から「失われた数年間」へ ― ドラッグとアルコールの闘い


20代後半〜30代前半の暗黒期
若い頃のクラプトンの輝きは、暗闇の中に沈んでいく。
デレク・アンド・ザ・ドミノスが解散し、パティ・ボイドへの恋は実らず、音楽的にも行き詰まりを感じていた。1971年、26歳のクラプトンはヘロインに手を出した。
そこから約3年間、クラプトンは公の場からほぼ姿を消した。ヘロイン漬けの日々。ギターを弾くことすらままならなくなった。「神」と呼ばれた男が、薬物に支配される日々を送っていた。
1973年、友人のピート・タウンゼント(ザ・フーのギタリスト)がクラプトンのために復帰コンサートを企画する。ロンドンのレインボー・シアターで行われたこのライブは、クラプトンを再び音楽の世界に引き戻すきっかけになった。
しかし、ヘロインから脱却したクラプトンを待っていたのはアルコール依存だった。一つの依存から別の依存へ。この悪循環は1980年代初頭まで続く。
この話をゴシップとして消費するつもりはない。重要なのは、この暗黒期がなければ今のクラプトンは存在しないということだ。
地獄を見た人間の音は、見てない人間の音とは違う。クラプトンのギターから滲み出る「痛み」や「哀しみ」は、若い頃の栄光だけでなく、この暗黒期の経験が血肉になっているからこそだ。
クラプトンの自伝にはこの時期のことが赤裸々に綴られている。エリック・クラプトン自伝は「波乱に満ちたダメダメ半生を自虐的に懺悔のように告白」した本で、英雄的な物語ではなく”人としてのダメさ加減”が浮かび上がる内容だ。音楽の話だけでなく、酒やドラッグとの闘いにかなりのページが割かれているが、だからこそ人間味がある。
若い頃のクラプトンの栄光と転落の全体像を掴みたいなら、映像作品のエリック・クラプトン〜12小節の人生〜 Blu-rayもおすすめだ。クラプトン本人がナレーションを務め、レアなアーカイブ映像が満載のドキュメンタリーで、Amazonのレビューでも「クラプトン入門にも最適」「BBキングのエリックに対する気持ちで締めくくられているのも感動した」と好評だ。
挫折が生んだ円熟 ― 「速弾き」から「一音の重み」への変化
暗黒期から復活したクラプトンのギタープレイは、若い頃とは明らかに変わっていた。
クリーム時代の「速弾き・テクニック重視」のプレイスタイルから、「一音一音に感情を込める」スタイルへ。弾く音の数は減った。だが、一音の密度は格段に上がった。
この変化を最もリアルに体感できたのが、1995年の「From the Cradle」ツアーだった。
1995年、福岡。俺が初めてクラプトンを生で観た日だ。
アルバム『From the Cradle』(1994年発売)を引っ提げたこのツアーは、異例中の異例だった。クラプトン自身のオリジナル曲は一切演奏せず、全曲ブルースカバー。「I’m Tore Down」「Reconsider Baby」「Hoochie Coochie Man」「Five Long Years」「Sinner’s Prayer」「Motherless Child」――本物のブルースの名曲を、クラプトンが全力で弾き倒すステージ。
「I’m Tore Down」のイントロが鳴った瞬間、会場の空気が変わったのを今でも覚えている。歪んだストラトの音がホールに響き渡り、ブルースの持つ生々しいエネルギーを全身で浴びた。地方公演ならではの距離の近さもあり、クラプトンの指使い・ピッキングの強弱まで感じ取れるような臨場感があった。
あのストラトの音を生で浴びたから、俺はギターを続けようと思えたんだ。
クラプトンがここまで原点のブルースに立ち返ったツアーは他にない。若い頃にブルースに取り憑かれた少年が、50歳にしてブルースの原点に全力で回帰した。「若い頃のブルースへの情熱は、何十年経っても変わらない」――1995年の福岡で、俺はそれを目撃した。
音楽メディアのヤングギターは2025年の武道館公演について「昔ほどは指が動かなくなった。速くて畳みかけてくるようなフレーズは減った。しかし彼はそういうことをすべて超越していた」とレポートしている。
まさにこれだ。クラプトンの凄さは”速さ”じゃない。若い頃の「速弾き・テクニック重視」から、現在の「一音の重みと感情表現」へ。この変化こそが、60年のキャリアの本質だ。
エリック・クラプトンの若い頃を今こそ聴くべき理由


若い頃のクラプトンを知れば、今のギターの「一音の重み」がわかる
若い頃のクラプトンと現在のクラプトン。両方を聴き比べると、面白いことがわかる。
クリーム時代の「Crossroads」と、2014年武道館の「Crossroads」。同じ曲だ。でも全く違う演奏になっている。若い頃は速く、激しく、攻撃的。現在はゆったりと、一音一音を噛みしめるように弾く。
どちらが良いかじゃない。「変化そのものが魅力」なんだ。
3回の来日公演を通じて、俺はそれを自分の耳で確認した。1995年の福岡はブルース全振りの攻撃的なトーン、2014年の武道館はクリーンで洗練されたトーン、2016年の武道館はブルージーかつ枯れた味わいのトーン。同じストラトキャスターでも、弾く人間の内面の変化が音に出る。
2016年の武道館は、2014年と比べてライブパフォーマンスの出来がかなり良かった。71歳とは思えないギタープレイの切れ味と、円熟味を増したボーカル。この年は同名アルバム『I Still Do』のリリース年でもあり、「まだやるよ」というクラプトンの意志を感じた公演だった。
Xではこんな声がある。
わかる。あのギタープレイを目の前で観たら、涙が出る。CDやサブスクで何百回聴いた曲でも、目の前で弾かれると全く別物なんだ。
「毎日聴いても飽きないどころかどんどん好きになる」――これがクラプトンの音楽の本質だ。若い頃の音源を聴いて「なるほど、こういう時代を経てきたのか」と理解してから現在の演奏を聴くと、一音一音の奥行きがまるで変わって聞こえてくる。
一方で、正直に言えば「衰え」を感じるという声もある。
ある音楽ブロガーは「初めてのクラプトン、プレイはまとまらず、フレーズは詰まり、バッキングにも少し雑さを感じた。やはり年齢はかなり影響していると思った」と書いている。
正直、この声もわかる。全盛期と比べたら指の動きは違う。
でもな、クラプトンの凄みは”速さ”じゃない。一音一音に込める感情の深さは、むしろ年齢を重ねるほど増している。クラプトンのライブを16回観たという長年のファンも「78歳の前回よりも80歳の今回の方がギターの手数が増え、弾きまくり感が強まっていた。とりわけ終盤のOld Loveでのギターソロは圧巻だった」と証言している。
80歳にして、まだ進化し続けている。これは若い頃から60年間、ギターを弾き続けてきた人間にしかできないことだ。
ウェブマガジン『STAGE』のライターは2025年の武道館を初体験して、こう書いた。「なぜ、今まで観てこなかったのだろう。断言する。過去最高の音楽体験の一つだった。あまりの感動と満足感に、ライブから帰り『産んでくれてありがとう』と母に電話を掛けました(笑)」。
初めて観る人こそ衝撃を受ける。それがクラプトンのライブだ。
クラプトンの若い頃を深く知るためのおすすめ作品
若い頃のクラプトンを深く知りたくなったら、以下の作品をおすすめする。
書籍
エリック・クラプトン自伝――クラプトン本人が書いた赤裸々な半生記。若い頃のブルースへの狂気的な没入、バンドの結成と解散、ドラッグとの闘い、パティ・ボイドへの恋。英雄伝ではなく「一人の人間の生々しい告白」だからこそ、読む価値がある。「予想よりも興味をもって読み進めることが出来た」という読者の声が多い。
手軽にクラプトンの全体像を掴みたいなら、エリック・クラプトン(光文社新書)がちょうどいい。大友博著で、ブルースへの愛を軸にクラプトンの半生を読める入門書だ。楽天市場でエリック・クラプトンの書籍を探すならポイントも貯まる。
映像作品
エリック・クラプトン〜12小節の人生〜 Blu-ray(DVD版もあり)――クラプトン本人がナレーションを務めるドキュメンタリー。若い頃のレア映像がふんだんに使われており、ヤードバーズ〜クリーム〜デレク&ザ・ドミノスの時代を映像で追体験できる。Amazonレビューでは「この人はひょっとして黒人と白人の世界をひとつにするため、使命を持って生まれてきた神の使いなんじゃないか」という声まである。クラプトン入門として最適の作品だ。
ギタースコア
クラプトンのフレーズを自分で弾いてみたいなら、エリック・クラプトン ギタースコアでタブ譜を見ながら練習するのがいいだろう。楽天市場でクラプトンのバンドスコアを探すと28件以上ヒットするので、アンプラグド版など好みのアルバムから選べる。
まとめ ― エリック・クラプトンの若い頃が教えてくれること


エリック・クラプトンの若い頃は、天才的なギタープレイと破天荒な生き様が同居する、まさにロックの体現者だった。
13歳でギターを手にし、一度挫折した。15歳でブルースに出会い、再びギターを手に取った。18歳でプロになり、19歳で売れたバンドを信念のために去った。21歳で「神」と呼ばれ、23歳で伝説のバンドを終わらせ、25歳で歴史的名盤を残し、26歳で地獄に堕ちた。
この若い頃の栄光と転落のすべてが、80歳になった今もステージに立ち続けるクラプトンの音楽の血肉になっている。
あるファンがこんなことを書いていた。「もう20年に渡る『これで最後詐欺』『ずっと閉店セール』も、もはやヒトとしての寿命とのチキンレースとなり、裏切られると素直にうれしいまで昇華した」。
笑った。でもこの気持ち、ファンなら全員わかるだろう。毎回「これが最後かも」と思って武道館に向かう。そしてまた来てくれる。その繰り返しが、クラプトンと日本のファンの関係そのものだ。
エリック・クラプトンは2023年に日本武道館通算100回公演を達成した。海外アーティストとして史上初の記録であり、2位のブライアン・アダムス(24回)に圧倒的な差をつけている。3回の来日公演を実際に観た身として言えるのは、クラプトンのライブはツアーごとに明確にテーマが違うということだ。1995年の福岡は「ブルースの求道者」、2014年の武道館は「集大成を見せるベテラン」、2016年の武道館は「まだ進化し続ける現役」だった。
若い頃のクラプトンを知れば、今のクラプトンのギターに込められた「一音の重み」がわかる。
まだクラプトンを深く知らない人は、若い頃の音源から聴き始めてほしい。クリームの「Crossroads」、デレク&ザ・ドミノスの「いとしのレイラ」、ブルースブレイカーズの「Hideaway」。サブスクでもCDでもいい。
そこには、ギターという楽器のすべてが詰まっている。



クラプトンの音楽を語るなら、CDやサブスクで聴くだけじゃなく、ライブで体感してこそわかるものがある。特にギターのトーンとニュアンスの違いは、録音では伝わりきらない。もし次の来日公演があるなら――迷わず行け。俺の屍を越えてくれ
